「ファストデザイン」の公害。なんで儲かるだけのデザインではだめなのか。

「あ、ここもユニクロになった」

「あ、これもいらすとやの素材だ」

街にもネットにもあふれる量産型のコンテンツ。

なんでこうなるのか、どうしてそれがまずいのか、という話。

本当のデザインって、どっち?

「デザイナーの仕事はクライアントが、うん、というものを作ること」です。

この間行ってきたDTPデザインの職業訓練の説明会で、教壇に立った人がそんなことを言った。

「まあ、そうかもしれない。」

だけど、どこか腑に落ちなかった。

その数日後、ハローワークのカウンセラーの人も同じようなことを言った。

「デザインを学んだあとはそれを活かして、自己表現をして世の中に問題提起をする、アート的な活動もしていきたいです」

という僕に対して、カウンセラーの方は

「商業デザインは、アートとは全くの別物なんですよ。いかにお客さんに売れるものを作るか。」

と諭した。

「確かに、そうだよな。でも…」

デザインってその程度のものなのか。なんか悔しかった。

今まで僕が大学で習ってきた建築設計(これもデザインのひとつだろう)は全然違ったからだ。

大学の建築学科で出される設計課題は、お客さんの話なんてほとんど聞きはしない。少なくとも3年生の前半までは。

設計課題では、「こんなお客さんがいたらいいな」といった具合に、自分に都合の良いお客さん像を作ってしまえばいい。建てる敷地も自由に選んでいいことも多い。

予算も無い。曲がりくねった壁や、長くせり出した床など、その奇抜な形状を実現するために、実際にはどんなに金がかかってもいい。

それよりも、現役の建築家である教授に案を見せに行くと、

「あなたは何がしたいの?」

「これ面白くないじゃん」

と跳ね返される。

いかに「自分が面白いと思うもの」を考えて、その面白さを「自己表現」するかを学ぶのだ。プレゼンでは自分の思いを熱く語った「ポエム」を記す人もいる。

そして、自分の案に関するあらゆる決定を下す最終権限は自分にあり、最終的にその作品を評価するのも自分自身だ。

不安そうに教授やTAの方に意見を求めると、「あなたがいいと思うんだったらいい。自分を信じて。」と指導される。

こういう教わり方にも、入学したときからずっと、もやもやしていた。これでお客さんの役に立てるのかなぁ、独りよがりじゃないかな、と。

社会に出てから求められる「お客さんのための、売れるデザイン」と、大学教育のなかで「自分の理想を追求して表現するためのデザイン」って、どっちが正しいの?

新国立競技場問題で気づいた、デザインのすき間

2015年に、「生牡蠣をどろっと垂らしたような」特徴的なデザイン案が話題になった新国立競技場の計画。

僕は、コンペでこのザハ・ハディド氏の案が選出された時からワクワクしていた。鳥肌ものだった。当時、建築家を目指していた僕にとって、これは希望の星だった。

「本当に、これが東京にできるのか!」

普段、設計課題をやりながら夢想するような建物が、実際に形になるんだ。日本の首都のど真ん中に。

だが結局、このデザイン案は、景観破壊だとか費用が高すぎるとか、技術的に困難だとか決定までのプロセスが不透明とか、揉めに揉めた挙句、白紙撤回されてしまった。

「まあ、そんなうまい話ないか、この日本で。」

残念だった。これからの日本の未来への、夢や希望やワクワク感といったものまで消えてしまったような気がした。

僕の人生を変えた出来事だった、と言って間違いないと思う。「今まで大学で感じていたモヤモヤはこういうことだったのか!」と気づいた。

今まで学んできた「理想を表現するようなデザイン」って、決して世の中ですんなり受け入れてもらえるものではないんだ。確かに、ザハ氏の案はワクワクした。でも、そのワクワクって、お金にならないからね。

もし学生向けのコンペであの案を出したら、間違いなく一等賞が取れるだろう。実際、そうそうたる建築家の重鎮を集めた審査委員会では一等だった。あの案は、日本の未来がこうあるべき、という理想を描いていた。

でも、クライアントである日本政府や日本国民が、うん、と言わなかった。国民の税金を使うのに、その費用対効果の説明がつかないからだ。

そう、建築家(すなわちデザイナーの一種)の目指すデザインと、「ビジネス的なもの」が支配する世の中が求めているデザインの間には、すき間があるんだ。

建築家はなぜ儲からないデザインをしたがるのか

何で建築家はわざわざ、お金にならない「面白い」デザインを推すのか、そして教えたがるのか。それにはちゃんと歴史的経緯がある。

産業革命が起こって、鉄鋼やコンクリート、ガラスがたくさん作れるようになった。それを活用するように、ル・コルビュジエをはじめとした建築家が近代建築を確立した。

近代建築は頑丈で災害に強く、気候を選ばず、大量生産できる原料で、高層化で土地も節約できるから、とても合理的だった。まさに「ビジネス的なもの」が待ち望んでいたデザインだろう。

こうして場所を選ばず、世界中どこにでも同じような建物が建てられるようになった。

同時に、都市の構造も変わっていった。自動車が普及すると、大量かつ高速輸送ができるように幅の広い直線の街路を敷くようになり、日照や通風のために建物は高層化と合わせて間隔をとるようになった。良好な住環境を得るため、そして効率的な活動をするため、商業・工業・住宅区画がゾーニングされた。コルビュジエの提唱した『輝く都市』が代表的だ。

しかしそうした近代的な建築や都市のあり方に、実際に暮らしていく中で「なんか大切なものを失ったんじゃないか」と告発する人たちが現れた。有名なのがJ・ジェイコブスという人の『アメリカ大都市の死と生』という著書だ。

昔の都市は、もっと猥雑で、道は曲がりくねっているし、色々な職業の人が入り混じっていた。その土地特有の気候や歴史に合わせて街や建物が作られていた。そのおかげで、そこならではの文化や魅力があった。

しかし、近代の都市が「ビジネス的なもの」すなわち合理性や経済性を追求するあまり、そうした昔のような多様性や人間性を失ってしまうことで、街に活気がなくなって、そこに住む人も幸せな生活を送れなくなってしまった。

そんなことがフィールドに根ざした研究によって知られるようになった。

その結果、近代の技術を使いこなし、ビジネス的なニーズを満たしつつも、その土地固有の文化を尊重したり、人間的な感覚を忘れないようなデザインをするのが、建築家の使命とされ、教育されるようになったのだ。

ファスト風土化が止まらない!

しかし、そんな建築家の理想は今も実現していない。むしろ状況は悪化しているかもしれない。近代の合理主義は強力なのだ。

最近、どこに行っても、ユニクロ、ABCマート、ニトリ、マック。同じようなお店が同じように並んでいると感じたことはないだろうか。

お店だけではない。マンションにしても、オフィス街や住宅地にしても、どの街に行ってどの駅で降りても、同じような風景があり、同じような建物が並んでいるだろう。

このような現象は「ファスト風土化」と呼ばれている。元々は評論家の三浦展さんという方が提示した概念で、僕はこの問題を建築家の内藤廣さんの著書で知った。

従来は特に地方の郊外で顕著な現象だったけれど、最近は銀座にユニクロがオープンしたり、その波は都心にも及ぼうとしている。

日本中の街から、その土地の歴史や文化などのアイデンティティが失われようとしているのだ。そして、その結果、そこに住む人は帰属意識を失って、どこにも居場所がない、と感じるようになっている。

何でこうなるのか。理由はさっきの話と同じだ。デザインがビジネスの論理に寄りすぎているのだ。

たしかに、再現性のある画一的なシステムを用いて大量生産した方が、会社も消費者も便利でおトクだ。ユニクロはグローバル企業になったし、おかげで僕たちは、今までよりも驚くほど安くて品質の良い服を着られるようになった。

しかし、街に暮らしていて何だかさびしくないか。つまんなくないか。そんな、お金にはならない負の感情が残される。

デザインが公害を引き起こす、という発想

僕はこうした「大切なもの」が失われていくのが分かっていながら、デザイナー側の力だけでは食い止めていけない現状を何とかしたくて、総合人間学部に転学部することにした。ここでは経済学、社会学、政治学などの幅広い社会科学が学べて、それらを応用した研究ができる。

「ビジネスや政治が支配する世の中で、本当に求められている(儲かる)デザインって、どんなものなんだろう」

とか逆に、

「建築家や大学教育が目指す(人間的な)デザインを世の中に受け入れてもらうには、どうすればいいんだろう」。

とか、そういったことを考えたかった。

そして、今起こっているような「一見、儲からないものが無視されることで、人間が知らず知らずのうちに貧しくなってしまう状態」というのは、外部不経済と呼ばれて研究されていることを知った。

その一番典型的な例が排気ガスだ。

ある人が自動車で商品を運ぶ商売をしていたとする。この人は、仮に燃費や走行性能、寿命が同じなら、排気ガスを出しまくる100万円のガソリン車を使ったほうが、200万円の電気自動車を使うよりも合理的だ。しかし、世の中がこうした人ばかりになると、皆はぜんそくで苦しむことになる。

ここでの問題は、排気ガスを出すことによって大気が汚染されて、めぐりめぐって被る健康被害というのが、会社の損得勘定に上がってこないことだ。

同じ構図の問題が、他の公害や環境破壊についても多く見られて、環境経済学という分野ではそれをいかに数値的に説明して、解決に役立てるかが研究されている。

排気ガスの例で言うと、そのせいでぜんそくになった人の医療コストが全部でどれだけかかるか計算して、いくらの排気ガス税を課そう、と考えたりできる。

森林破壊なら、その森林が吸収してくれるはずだったCO2の量と同じだけ排出量を減らすのにいくらコストがかかるか、とか、その森が生み出すきれいな水はどれくらい価値があって、森の地価上昇効果はどれくらいで、観光収入はどれくらい得られたはずだ、とか、だからいくら保全に補助金を出そう、とか考えたりする。

僕は「デザインの問題もこれと同じじゃないか!」と思った。そう、デザインも「公害」を引き起こしているのだ。

新国立競技場の件なら、あの建設案が実はどれだけ東京や日本の魅力を上げることができたのか、例えば観光客数の増え方や、周辺の不動産価格の上昇を予測すればいい。「ファスト風土化」問題なら、例えばそのせいでどれだけ人口が流出して、税収がどれだけ減るのか考えればいい。これを卒論のテーマにすることにした。

結果を言うと、環境経済学の手法を建築デザインに適用するのは現実的には難しかった。

地価が上がったり観光客が増えたのがデザインのおかげかどうかなんて、立証できない。何か別の要因があったのではないか、と言われてしまう。まして、実際に建たなかったものの効果を測るのはなおさら困難だ。

結局、卒業までにしっかりした研究成果を得ることはできなかった。この文章を読んで興味を持ってくれた人はぜひ僕に代わってトライしてみてほしい。

しかし、デザインが人々の心の中に「公害」を引き起こす、という思想は僕の中に強く残った。だから、デザインを単なる個々人や企業の費用便益の論理だけで使ってはならない、と。

ネット空間でも、「デザインの公害」が起こっている

実は、この「デザインの公害」は建築や都市の話に限らない。

以前、アンチ記号化 – 僕がItonamiを撮る理由 第4話に書いたように、エロコンテンツは記号化、ジャンル化が顕著に進んでいる。お決まりのシチュエーションや表現に頼った大量のコンテンツが量産されていて、その間にあった「ほわーんとしたもの」、つまり、その場限りの個々の輝きのようなもの、が失われつつある。

また、アンチ情報の欠落、アンチ均質化 – 僕がItonamiを撮る理由 第5話で書いたように、いいね!集め型のSNSでは、投稿されるコンテンツから各個人固有の情報が欠落して、息苦しさを生んでいる現状がある。

このように、ネット空間でも似たような現象が起こるのは、建築や都市のケースと同様に、上に挙げたサービスやコンテンツが合理性・経済性といった「ビジネス的なもの」ばかりに寄り添ってデザインされていて、もっと混沌とした「アート的なもの、感性、個性」を失いつつあるからではないか。

ちょうど個々のデジタルコンテンツを建築に例えるならば、それらとそれらを支えるインフラが集まって構成される配信プラットフォームは都市のようなものと考えられるだろう。

シナリオは同じだ。IT化が進んで大量のコンテンツや情報がプラットフォーム上にあふれるようになった。そこで、必要な情報に一直線にアクセスできるような導線が整備された。つまり、コンテンツは整然とジャンル分けされて、売上や「いいね!」数にもとづいたランキングを提示するシステムができた。「輝く都市」のように。

そして個々のコンテンツはというと、大量生産が可能で高いKPIを得られるような、「わかりやすい」価値を提示する簡潔明快なコンテンツが普及して、一方で「不良」とされる複雑なその他の情報は欠落させられるようになった。”Less is more.”というわけだ。

こうしてネット空間は日に日に洗練され、輝きを増しているようにも見える。しかしその一方で、どこか物足りなさや居場所の無さを感じることも増えているのではないだろうか。

一昔前に炎上したキュレーションメディアやアフィリエイトサイトの台頭なんかがわかりやすい例だけれど、同じようなことはあちこちで起こっている。読んでいる方は、身の回りのサービスを思い返してみてほしい。前述の「ファスト風土化」のような現象はネットでも起こっているのだ。

これを「ファストデザイン」と呼びたい。

デザインはアートの容れ物であるべき

こうしたデザインの公害を食い止めるには、どうしたら良いのだろうか。それも僕は建築や都市と似たようなことが言えるのではないかと考えている。

つまり、広い意味での「アート」を終点にしたデザインをすることだ。ここでいう「アート」とは、一つひとつの、人間という存在自体や人間の営みや感性、それらが蓄積して築かれてきた歴史や文化などのことだ。

デザインとは何か、については昔から色々なことが言われている。僕のような知識も経験もほとんどない人間が言うのは浅はかかもしれないが、僕は現時点では「デザインとは、アートを入れるための容れ物である」と考えている。

建築にしても、Webサービスにしても、デザインは本来アートの居場所を提供している。それをどうやって作ってやるか、がデザインだ。

一方で、公害を起こすようなデザインというのは決まって「お金を入れるための容れ物」と化している。

どうしたら売上が増えるか、回転率が上がるか、クリック数が増えるか、再生数が上がるか、そんな「お金が貯まりやすい容れ物」を作るために、人間の行動特性や心理を利用すると、ひどい器ができる。そう、「ファストデザイン」だ。

もちろん、良い容れ物を作るにあたってテクノロジーやビジネスの論理を用いるのは有効だ。しかし、それはあくまで「アートにとって良い容れ物を作る」目的のために上手く利用してやるべきで、最終的に作り上げるのは「お金の容れ物」ではない。

実際、先ほどコルビュジエを悪者かのように書いたが、実は彼自身はアートをことのほか大事にしていた。「モデュロール」に象徴されるように、彼の建築・都市は人間の生活を第一に考えて生み出されたもので、建築内部には絵画や彫刻、タペストリーを飾ることも欠かさなかった。それゆえ、彼の建築は現在でも非常に高く評価されていて、見学者が絶えない。

コルビュジエの言った「住宅は住むための機械である」という言葉も誤解されることが多いが、この言葉もそうした文脈から考えると、他ならぬ「建築はアートの容器という目的に徹しているべきだ」という意味に違いない。

悪いのは、彼の建築言語を悪用して、建築を「集金のための機械」に作り変えてしまった後世の人間たちである。

Webのプラットフォームやコンテンツも、同じくアートが心地よく身を置けるようなものを最終到達地点として考えなければならない。アートがこぼれ落ちたりアートへ圧力をかけるようなことがあってはならないのである。

STOP! ファストデザインの公害

公害はテクノロジーが人の体に及ぼすもの、というのが常識だ。でも僕はこうして、公害はデザインが人の心に及ぼすこともある、と気づいた。

もちろん、人には体質があるから、「ファストデザイン」に過敏に反応してすぐ心が喘息になる人もいれば、今はまだケロッとしている人もいるだろう。僕はきっと前者なのだろう。

でも昔の公害がそうであったように、少しずつ「ファストデザイン」の害は積み重なり、そのうちみんなを蝕んでいく。

だから、僕は早くもっと多くの人にこの問題を知ってもらい、アクションを起こしてもらいたい。

こう思って動き始めたのは、単純に自分が苦しいから、というのが最初の理由なのだが、早めにみんなに迫る危機を察知できるとしたら、それを知らせればみんなの役に立てるということに違いない。

大事なのは、プロダクトやサービスを提供する側によるデザインの使い方と、消費する側の選択だ。

今まで「何となく感じてはいたけど、その構造に無自覚だった人」には、ここで述べたようなメカニズムを認識してもらって、デザインの使い方や消費行動を改めていってもらいたい。

このItonamiという活動も、その一環として行っている。性的コンテンツやメディアの作られ方や消費のされ方を見直そうよ、という趣旨の活動だ。僕の興味関心が、今は性分野に向いているため、このようなことを行っている。

しかし前述のように、「ファストデザイン」は都市空間・建築やWeb全体に広がっている。今後僕がどのような道を歩むにせよ、「ファストデザインによる公害を阻止すること」というのは僕の主な行動原理であり続けるだろう。

僕にとって、デザイナーとは何か

もちろん、「やめよう」と訴えるだけでは人はなかなか動かない。人は合理的な生き物だからだ。

そこで、豊かな「アート」を守るために、うまいこと「ビジネス的なもの」の力を使ってやりたい。それこそがデザイナーの役割であり、腕の見せ所のはずだ。

「デザイナーとは売れるものをつくる人」という言葉に感じた違和感の答えはここにあった。

Itonamiで言えば、個々人の固有の情報に、「その場でしか味わえない料理」に、価値をつけてやる。そうしたものに価値が見いだせるようなサービスやコンテンツの作り方をする。それがデザイナー。

まだまだ僕は口ばかり達者で、実際に生み出すものは風上にも置けないくらい非力に違いない。でもこうした考えのもとに何度もトライしていきたい。

まだ23歳。こういう活動ポリシーを得られただけでも、今までの迷走ともいえる僕の経験には、充分すぎるほどの価値があったのかもしれない。

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