現代アートへの憧れ – 僕がItonamiを撮る理由 第7話

「何だこれ、ただの穴じゃん」

僕は穴がこんなに偉大だなんて、建築を学ぶまで知らなかった。別にいやらしい意味ではない。

これは、僕の人生を変えたかもしれない、とある穴の話。

意味不明だった海の写真

ここまで、既存のエロコンテンツ、さらには現代社会の色々なものを批判してきた。AVでの演技に始まり、エロの記号化のこと、映像などから情報が欠落し均質化していること、そして日本でセックスを描く教育的コンテンツがないことを話させてもらった。

では、それらの問題に対してどうアプローチするのか。その答えとして僕が使ってみたいと思っているのが、現代アート、とりわけインスタレーションアートに見られる手法である。

2014年の春、僕が大学2年の時だった。建築学科の課題で、現代の写真アーティストの作品を展示する空間を設計する、というものがあった。

そのとき僕はたまたま杉本博司さんという方の「海景」という作品シリーズを選んだ。Googleで「写真家 アート」とかで検索して上に出てきたからだ。それは世界各地の色々な海の水平線が、まったく同じ構図で大量にモノクロ撮影された作品だった。
杉本博司の「海景」シリーズを大特集!

最初は正直意味不明だった。上が白くて、下が黒い、同じような写真が並んでいるだけだ。

先生はそのチョイスはいいねと言い、実際にその作品が置いてあるという瀬戸内海の直島に行くことを勧めてくれた。

答えは瀬戸内海にあった

その夏、僕は実際に直島を訪れて、びっくりした。アートの島とは聞いていたが、どこに行っても、ひとことでいうと展示物らしきものがシンプルだ。ただの球とか、箱型の石とか。というより、ここにある光、空、海、人の姿や声、刻々と移り変わるそれら自体が展示物なのだ。

天井に四角い穴が開いた部屋に入ると、みんな上を見上げていた。ほかに何も見るものがないからだ。20分くらい座っていたかもしれない。雲一つない青空だった。

「きれいだなあ」

こんなに空をひたすら見つめたことはあっただろうか。

次にその部屋に入ったのは、遠く離れた金沢でだった。その日はもう日が沈んで、真っ黒な穴から雪が注いでいた。

「きれいだなあ」

多分、曇っていても、雨が降っていてもきれいなんだろう。

最初の直島旅行の2年後にはなるが、例の「海景」にも出会えた。本物の瀬戸内海と肩を並べるように、たくさんの海景が並んでいた。

「どれも、きれいだなあ」

何とも言えないこの感じ。ずっと居たい。あえて言葉にするなら、「やさしい」。そこに誰がいたっていい、それがどうであったっていい。自ずとそれが展示になるだけであり、素晴らしいものなんだ。だってそれが自然なんだから。

これらは第4話で述べたあの「二度とつくれない食べ物」を展示している! そこには悩みの種だった演技も記号付けもなく、そして展示物固有の情報が欠落せずに、むしろ際立っている。

僕は現代アートが大好きになって、瀬戸内をはじめ、全国の現代アートに足を運ぶようになった。

Itonamiの構想を練るとき、これを使おう、と思った。具体的には、直島にある「海景」をはじめ、豊島にある心臓音のアーカイブ、直島と金沢21世紀美術館にあるタレルの部屋のような手法だ。
心臓音のアーカイブ | アート | ベネッセアートサイト直島
光の芸術、ジェームズ・タレルの日本で見れるタレルの作品【a】|ミライノシテン

「海景」は海を、タレルの部屋は空を、心臓音のアーカイブは人々の鼓動を、それぞれまったく同じフォーマットに切り取ってきて、たくさん集めるのだ。周りの余計なものはきれいさっぱり取っ払ってしまう。

そうすると、そこに共通するもの、違うもの、二度と見られないその瞬間のその対象物の姿が、時間も空間も超えて鮮やかに浮かび上がってくるのだ。全肯定とともに。

セックスだって同じだ。Itonamiは人々のイトナミを、同じフォーマットに切り取ってきて、たくさん集めよう。そうすれば、人間のイトナミの姿が鮮やかに浮かび上がるに違いない。

長かった答え探しの旅も、これで一旦おしまい。次はこの仮説を実行に移すんだ。

僕がItonamiを撮る理由 – 完 –

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